東日本大震災から9年が経過しました。
私は当時、福島県いわき市にある司法書士法人に勤務していました。
3月11日は金曜日でした。
私はその日仕事が休みで、家でインターネットをしていました。
いきなり、下から突き上げるような揺れが起こりました。
「天変地異だ」と思いました。
ずっと揺れ続けるので地震だと思いました。
棚から本がドサドサ落ちてきました。
パソコンを置いていた机の下に逃げました。
地震の時は机の下に逃げる、というのは基本的には正解です。
ただ、震度6弱の地震が発生してしまうと、歩くことは難しいですから、安全な場所を探して避難するということは難しいと思います。
地震が落ち着いて、テレビをつけようとしたら、14型のブラウン管テレビがつんのめってました。
テレビで、震度や各地の状況について見ていました。
津波がくる映像も、テレビで見ました。
私が住んでいたのは、いわき市平というところで、海からは離れているので、大丈夫だろうとは思いました。
ライフラインですが、電気はすぐに復旧しました。
水道は断水して、以降1カ月くらいは断水してました。
固定電話も通じなくなりましたが、3月14日には復旧しました。
外に出てみましたが、静かに騒いでいる感じでした。
夕方になって、事務所に行ってみることにしました。
自転車で10分程度の距離にある事務所に着くと、棚と言う棚か崩れ、書類と言う書類が散乱していました。
事務員の方のご家族で、津波から逃れてきた方々が避難していました。
チョコレートと充実野菜を差し入れました。
次の日、3月12日、始業時間にあわせて事務所に行ってみました。
あいかわらず書類が散乱していました。
昨日、避難してきていた方々はいなくなっていました。
何人かは事務員の方が来ていましたが、断水もしているし、仕事にならないので、すぐに帰ろうということになりました。
その時、原発が危ないという情報も入っていました。
私は土地勘がなく原発がどこにあるのか分からなかったので、だいたいの位置を教えてもらいました。
事務所が休みになって、家に帰って、特にすることもないので、ニュースを見ては寝て、ニュースを見ては寝てを繰り返していました。
知り合いから携帯にメールが入ったり、電話がきたりしていました。
断水はしていましたが、電気が通じていたので助かりました。
近所のスーパー一二三屋は営業していました。
災害時において最低限必要なものを挙げるとすれば・・・、
①水
②食物
③トイレ
④寝る場所
です。
これに、個々人の状況に応じて、プラスして必要なものが増えていきます。
私の場合は、
①水:ミネラルウォーターやウーロン茶の備蓄がありました。また、風呂に入った後、栓を抜いていなかったので生活用の水もありました。
②食物:冷凍庫に、冷凍ご飯などがたくさんありました。
③トイレ:家のトイレが使えました。
④寝る場所:木造のアパートでしたが、地震でも倒壊しませんでした。
災害時において最低限必要なものがそろっていました。
2週間くらいは籠城できるかなと思いました。
しかし、テレビを見るくらいしかやることがありません。
ニュースを見ては寝て、ニュースを見ては寝ての繰り返しでした。
できる限り体力を温存しておいた方がいいと思っていました。
避難するとすればどこに行こうかとも考えていました。
3日間、家で籠城しながら、情報収集をしていました。
3月14日
数十キロ離れた同僚宅へ避難しました。
ほぼペーパードライバーだった私の車のガソリンは満タンでした。
冬タイヤも装着していました。
その頃のいわき市は、震災の翌日からガソリンスタンドにガソリンはなく、物流も寸断されていました。
車もほとんど走っておらず、人もほとんど見かけませんでした。
電気は通じていても、断水していると生活ができないので、多くの方々が避難をしていたのだろうと思います。
同僚宅では3日間過ごしました。
ニュースを見たり、インターネットで情報収集したしするくらいしかやることがありませんでした。
3月17日
さらに避難することにしました。
新潟県に友人が住んでいたので連絡を取り、新潟県村上市まで避難しました。
いちおう一安心です。
福島県から新潟県に抜ける国道49号線は、避難車両でいっぱいでした。
新潟には物資が唸るほどあり、新潟県民の余裕を感じました。
避難と言うとネガティブなイメージですが、私は避難生活を満喫していました。
インフラが壊れたら、インフラが壊れていない所に移動するのがいいです。
新潟での避難初日は、ラーメン居酒屋や温泉に連れて行ってもらいました。
友人は日中仕事があるので、私は友人宅でニュースを見たり、インターネットで情報収集したりしていました。
当時私は過払金返還請求訴訟を多数抱えていましたので、いわき簡易裁判所の審理の状況などもチェックしていました。
1か月程度は、期日は休みになったと記憶しています。
裁判所の建物自体も損傷したようでした。
3月22日
楽しい避難生活も終わり、いわき市に帰ることにしました。
いわき市に戻ると、通常の6割くらいは車が走っていて、活気が多少は戻っているように感じました。
翌日から、仕事を再開しました。
以上です。